蔦八
東京都大田区大森北1-35-8
TEL 03-3761-4310
大森の駅から歩いてすぐ、「天下一煮込」の看板が目印の蔦八は、当地で38年続く煮込み屋だ。15席程度のカウンターの向こうに大鍋があり、グツグツと煮込みが湯気を上げている。味は醤油味。卵入りのもつ煮込みは、味がしみていて、甘すぎず辛すぎず、絶妙の味加減だ。通は豆腐の煮込みを頼み、汁をかけてもらう。これもまた絶品である。
カウンターの目の前には、細い棒が立っていて、プラスチックの丸いコインがささっている。これは値段ごとに色分けされていて、注文をするごとに増えていく。自分がどれだけ飲んだか、食べたか、お店にも周りにもわかる仕組みである。
煮込みの鍋をあずかる大将は、御年72歳。昭和45年に脱サラでこの店を始めた。それ以来、汁をつぎ足しながら作ってきた煮込みには、38年間の店の歴史がこめられている。煮込み以外の料理は、すべて奥さんの手作りだ。青柳のぬたと、小松菜のごま和えをたのむ。どちらも味が濃すぎず、ダシが利いていて旨い。
「なるべく添加物を使わないように心がけています。素材は旬のもので、醤油、みりん、味噌など調味料は基本的なものばかり。だから安心して食べられると思いますよ。でも若い人は大きな店で、冷凍のものばかり食べているから、うちの味は物足りないかもしれません」と奥さん。
しかし、若い人の中には、ご飯を持参して、それに煮込みをぶっかけて食べる人もいるとか。今ではめずらしくなった「おふくろの味」を懐かしんで通ってくる常連さんも多い。
大将は下戸だが、チョイスするお酒にはこだわりがある。日本酒は静岡の「高砂」一筋。複雑な味わいの煮込みを、やさしく受け止めてくれる銘酒だ。焼酎の水割りには麦焼酎の「玄海」、ウーロン割りには甲類焼酎の「まろやか」と、微妙に中身を変えて出すところもさすがである。
カウンターには、夜な夜な近所の常連さんが集い、ゴルフ談義に花を咲かせる。ゴルフ好きな大将は、話に夢中になって、注文が入っても聞こえない。商売そっちのけだ。休みの日には、ゴルフコンペを開催するほど、みんな仲が良いという。
ゴルフのほかには、年金と病気と孫の話で盛り上がる。そう、常連のオヤジたちも大将も高齢なのだ。「後継者は?」と聞くと、「いないね。娘は北海道だし、息子は千葉に住んでいるからね」それでなくても、大将は最近病気がちで、入退院を繰り返しているというから心配だ。
常連さんは、「ここがなくなったら大森のオアシスがなくなるよ」と言う。そして「お客さんの中から後継者が出ればいいのだが」と肩を落とす。でもとりあえず、今日は大将も自分も元気で、変わらぬ煮込みが食べられることにほっとする。小さな幸せである。
そうこうするうち、目の前にあるプラスチックのコインが、いつのまにか10枚を超えていた。「いかん、『致死量』をこえてしまう。大将、お勘定!」と常連さんたちはあわてて帰って行ったのだった。