菊むら
東京都港区新橋3-9-6
TEL 03-3431-2619
新橋烏森口の飲み屋街の一角に、ママ一人でやっている小さな飲み屋がある。間口は狭く、中は5坪ほど。カウンターは7人でいっぱいだ。開店から1年ほどしかたっていないため、店内は思いのほかきれいで明るい。ママが女性らしい気遣いで、毎日ぴかぴかに掃除をしているせいでもあるだろう。
開店1年といっても、店はママのお母さんの代からだから、もう50年以上続いた老舗。新橋の再開発のたびに立ち退きにあい、店舗は転々と移転して、今の店が3軒目だ。ママは前の店からお母さんを手伝っていたという。お母さんはもう店には立たないが、早い時間にはカウンターの奥で、お客として飲んでいる。飲む酒は50年間変わらず菊正宗だ。
「母はもうトシだし、酔っぱらってしまってダメなんです。でも、昔からのお客さんが来てくれるのがうれしくて、つい店に来てしまうんですよ」とママは笑う。私も一度、早い時間に来たとき、お母さんに遭遇したことがあるが、ママと同じように愛想の良い素敵な女性だった。
そんな話をしつつ、カウンターに座ると、まずお通しが出てきた。今日は生シラス。あとは根三つ葉と菊の酢の物だ。料理はすべて、ママの手作り。飲むのは「菊むら」という店のオリジナル芋焼酎だ。鹿児島の老松酒造が造っている。芋のクセが少なく、サラリとして飲みやすい。
「今日は小さなアジが入ったから」と、三枚におろしたアジの残り物である骨を、わざわざ揚げて、骨せんべいを出してくれた。パリパリとして香ばしく、懐かしい味。「昔はこれがおやつだったよね」と、常連のオヤジたちは感涙ものだ。
ガス台のほうからなにやら良い香りがしてきたと思ったら、松茸の土瓶蒸しが出てきた。「うちは値段をおさえるためにカナダ産。香りが良いのよ」とママが言えば、「なにも正直に言わなくても。国産だって言っとけば、誰も気がつかないのに」とカウンターからヤジが飛ぶ。
ますはだし汁を飲む。おお、松茸のいいだしが出ていて絶品だ。中には銀杏、エビ、三つ葉も入っていて、ちょっとした小料理屋のつまみのよう。やるじゃないか、菊むら。
松茸を堪能して、次は……と考えているところへ、「くさやひとつ!」とオヤジの声。松茸からいきなりくさやかい。すごい落差だが、ここが菊むらの真骨頂。ママは当たり前のようにくさやを焼き始め、店中異臭に包まれる。
「私なんて、昔は店の2階に住んでいたから、よく母の焼くくさやの匂いをかいでいたの。だから全然平気。むしろこの匂いをおかずにごはんが食べられるくらいよ」とママは屈託がない。くさやが焼き上がると、食べやすいようにほぐして出してくれる。この一手間が、オヤジ心をくすぐるのだ。
つまみを作る手が空けば、ママはビール飲みつつお客さんと談笑している。「なるべく満員にならない方がいいわね。だっていっぱいだとみんなと話せなくなるでしょう?」と、あまり商売っ気はないらしい。閉店も夜10時と早く、お客がとぎれると、それ以前でもさっさと店を閉めてしまうから、「遅くなるときは電話してね」
手作り料理とママの愛嬌が、今夜も疲れた心を癒してくれる、新橋の小さなオアシスである。