「松の寿」の女将、松井真知子さんに会ったのは、新宿のお酒の会だった。三船美佳似の美形。伝え聞くところによると、ブロガーとして有名で、彼女の書く「蔵元の女将日記」は酒通のあいだでかなりの人気だとか。杜氏で社長のだんなさまも、若くてイケメンというウワサ。これは行ってみなくては、と少々ミーハーなノリで栃木県の塩谷町へ向かったのだった。
取材日の朝、真知子さんが、JR矢板駅まで迎えに来てくれた。蔵へは車で20分ほど。車中でだんなさまとの馴れ初めなどをうかがう。松井宣貴社長は、平成2年東京農大卒。卒業後、高崎の焼酎メーカーに勤め、そこで真知子さんと知り合ったという。
「21歳で結婚して、もう14年です。何も知らない若いうちだったから結婚できたんですよ〜。はじめは、理想と現実のギャップに愕然としましたから」と笑う。なんでも、「奥様」になりに来たつもりが、気がつくと現実は「嫁」だったらしい。まわりの友達が都会でどんどんキャリアアップしていくのに、自分は田舎で「おしん」のような生活・・・。そんな焦りと落ち込みから救ってくれたのがブログだった。
「とても反響があったんです。日本酒の好きな人が、こんなにいると知って、家業に誇りが持てるようになりました。それからですね、積極的に外に出るようになったのは」オフ会で、実際に日本酒ファンの人たちにも会い、刺激を受け、日本酒の勉強をする日々。やがて新聞にコラムをもち、テレビ出演もして、ちょっとした日本酒界の有名人になってしまった。今は企画・広報担当として、松井社長と二人三脚で「松の寿」を支えている。イキイキとお酒の話をする姿は見ていて楽しそうだ。
酒母も麹も一人で手造り
本日の作業は、大吟醸の搾りがあるだけ、ということなので、普段の様子を聞きながら、蔵の中を見せてもらった。社長のほかには地元の人が3人と、通年雇用の社員が1人。しかしみんな「お手伝い」的な蔵人さんで、ほぼ社長一人で500石を造っている。そのため、作業は普通の蔵と違い、変則的だ。
まず朝一番で米を洗う。特定名称酒の米はすべて、普通酒も麹米は手洗いする。大吟醸の造りと同じ、ストップウオッチを使っての限定吸水だ。そして午後一番に甑で米を蒸す。昔ながらの和釜を使い、蒸し取りはクレーンでつり上げる方式である。その後、普通酒の掛け米は放冷機にかけ、麹米と特定名称酒の米は自然放冷で冷ます。
仕込みを始めるのは午後2時からだ。仕込み蔵は明治時代のままのたたずまい。6000リットルほどの小さめな開放タンクが並ぶ。一番大きくて1500キロの仕込みだという。大吟醸は、なんと1年に2000リットルのサーマルタンク1本しか仕込まない。それでも10年で5回も全国の金賞をとっているので、よほど造りがうまいのだろう。
麹は松井社長一人で造り、夜中も起きて手入れをしている。麹室は見るからに小さく、7坪くらいの広さで高さは2メートルしかないという。大吟醸は小箱で、あとは天幕式の製麹機で造る。とにかく室が小さくて一つしかないため、引き込みと盛りの湿度調節ができないのが悩みどころだとか。そのため、麹を湿気が出ないような特殊なシートでくるんでいる。
酒母も、松井社長の担当。仕込み水が軟水のため、やわらかい酒になるのだが、そのぶん味が出にくいとも言える。それで、酵母で香りと味を補っている。今年は山廃を初めて造ったが、ごつい酒にはならず、やさしい味わいの山廃になったという。
一通り蔵を見ているうちに、大吟醸の搾りの時間になった。サーマルタンクからもろみをくみ出し、酒袋に入れて吊して搾る。蔵人さんたちの動きはどこかぎこちなく、指示待ちの人ばかりで松井社長はたいへんそうだった。手伝いの人はいるが、本当に酒造りをしているのは、やはり松井社長一人なのだろう。冬場はまったく休みがなく、夜中も麹の手入れをし、休むのは正月くらいだとか。ここまで心血を注いで造ってもらえるお酒も幸せだ。
設計通りに酒を造りたい
蔵を一通り見せてもらったあとは、併設の試飲販売所に場所を移して、「松の寿」の利き酒をさせてもらった。どれも松井社長が手塩にかけて造ったお酒たち。いったいどんな味なのか。
まず「松の寿」の7割を占める普通酒から。おお、これはスッキリしていて飲みやすく、けっこうウマいではないか。飲み飽きしない味である。レギュラー酒はこうでなくちゃ。「純米吟醸」は、やわらかく、口当たり良く、キレも良い、と3拍子そろった良酒だ。「純米酒」は、コクはあるがゴツくはなく、たっぷりとした旨みが広がる。これもなかなか。「大吟醸」はほどよい吟醸香で、やわらかく甘みも感じる。さすが金賞酒だ。もっとも気に入ったのは、「男の友情」という本醸造酒。名前通りりりしくて男らしい! 辛口でスッキリしていてウマいのである。聞けば、この町出身の作曲家、船村徹さん直筆のラベルだという。
今年で造り始めてから3年目になる「貴醸酒」も飲ませてもらった。バニラ香がして甘酸っぱい。濃い味なので、オンザロックにしても良さそうだ。「シャーベットにしてもおいしいんですよ」と真知子さん。「貴醸酒」は単体でも売っているが、小さい瓶の「純米酒」と「吟醸酒」と3種セットで「松の寿タワー」という商品になっている。これは、「貴醸酒」を広めるために、真知子さんが考えた企画である。こういう楽しい商品が増えれば、もっと日本酒の世界も広がるに違いない。
「松の寿」のお酒を堪能しているところへ、松井社長が「さっき搾っていた大吟醸です」と搾りたてを持ってきてくれた。うっすらと濁っているが、ちゃんと華やかな香りがして、上品な大吟醸だ。「今年も金賞とれるといいですね。でも、毎年鑑評会の評価基準が微妙に変わっているようですが?」と言うと、「いえ、規定通りの酒を造れる人なら、どんな酒でも造れるんですよ。正直、金賞は毎年ねらっています」と力強く答える松井社長。本当にこのお酒が金賞とれるといいなあ。
「松の寿」を試飲してみて、「やわらかく優しい酒」という基本テーマはあるものの、それぞれの造り分けがしっかりとできていたことに感心した。松井社長はデータ主義で、毎年細かい記録をとっているという。日本酒は冬場だけの造りなので、忘れないようにすべて書き残しているのだ。
「できちゃったお酒ではなく、設計通りのお酒を造りたいのです。今年で13つくり目、杜氏になって10年ですが、自分の思い描いたとおりのお酒がやっとできるようになりました。でも、まだまだ難しいですけれどね」
そう言う松井社長は、下野杜氏の第一号で、日本酒造青年協議会の利き酒会で、5位に入賞した実力者。真知子さんの内助の功も手伝って、「松の寿」の評価は年々高まっている。一人での酒造りは毎年たいへんだろうが、これからも応援したい蔵である。
株式会社松井酒造店
創業慶応元年(1865年) 年間製造量500石
栃木県塩谷郡塩谷町大字船生3683
TEL0287-47-0008
http://www.matsunokotobuki.jp
1小さな麹室
2仕込み室
3大吟醸の櫂入れ
4大吟醸の袋吊り
5米洗い
6麹の切り返し
7蒸し取り
8試飲販売所
9限定流通の商品
10一般流通の商品
11試飲
12松井社長、真知子さんとともに