JRの西金沢から北陸鉄道に乗り換え30分。中鶴来の駅には、菊姫生産部の山上弘茂人さんが迎えに来てくれていた。山上さんにはじめて会ったのは、菊姫が2007年のインターナショナル・ワイン・チャレンジで、チャンピオン・サケを受賞した祝賀パーティーの席だった。
その受賞酒「鶴乃里」は、山廃の純米酒。きれいで爽やかな酸がきわだつ、菊姫にしてはモダンな感じの酒だった。これが世界一の日本酒か、と思うと感慨深い。その酒質設計をしたのが山上さんだった。
菊姫は、昭和60年代から杜氏制度の崩壊をいち早く危惧し、酒造りのできる社員を育てるため、将来の杜氏候補「酒マイスター」を一般公募した。山上さんはそのときの一期生で、酒造りや酒質管理をしながら、広報や企画の仕事もしている。事務作業だけの広報担当者と違って、新生菊姫とともに歩んできたたたき上げであり、それだけに、菊姫を語ると熱い。
「とりあえず今夜は地元で飲みましょう」ということで、菊姫のお酒がそろっている居酒屋「肴菜処 鶴の家」へ行った。おろしポン酢が添えられたブリのたたきなどをつまみながら、次々と菊姫を飲んでいく。
この日、外には雪が積もっていて寒かった。「こんな日はお燗酒だね〜」と普通酒の「姫」を熱燗にしていただく。山廃仕込み、麹米が山田錦100%とのこと。おお〜、これは「酒飲んでるぜ!」という充実感たっぷりの酒だ。
菊姫のお酒は白い酒杯に注ぐと、うっすらと黄色い。「これは、炭素濾過を最小限にしているからです。炭素濾過をすると色が抜けて透明な酒になりますが、旨みや香りも抜けてしまうんですよ。あとは、うちの場合、どの酒も1年以上寝かせてから出荷しているので色がついています。どうぞ熟した酒の旨みを味わってください」と山上さん。
地元の五百万石100%で醸し、1年間熟成させた普通酒「連峰白山」も飲んでみる。お、これも旨みたっぷりだが「姫」よりスッキリとしている。普通酒の「菊」も山廃・山田錦だが、「姫」よりアル添量が少ない。これはゴツくて骨太な菊姫らしい酒だ。
秀逸だったのが、純米酒の「先一杯(まずいっぱい)」である。コクがありつつキレもよく、素晴らしいバランスに思わず「ウマい!」とうなってしまった。吟醸酒の「加陽菊酒」はすごい熟成感で、辛口。菊姫パワー炸裂である。
どの酒も、飲み手に挑んでくるような迫力のある酒ばかり。しかし不思議と飲み疲れはしない。5種類の酒を1人1合ずつ飲んだので、計5合。だが、翌日早朝5時からの取材にもスッキリと起きられ、酔い覚めがものすごく良くて驚かされたのだった。
無駄と妥協を排した設備
宿に迎えに来てくれた山上さんに、「どうしてこんなに酔い覚めがいいんでしょう?」と聞いたところ、「丁寧に全量自家精米をしているので、悪酔いする成分が少ないためでしょう。あと、普通酒にまで、兵庫県吉川(よかわ)町の特AAA地域指定の山田錦を、ふんだんに使用しているせいもあるかもしれませんね」とのことだった。
この日は普通酒「菊」の仕込みがあった。普通酒の仕込み蔵は昭和蔵といって、3トンのタンクが26本ある。吟醸専用の蔵は明治蔵と平成蔵で、仕込みは1トンだ。どれも特注のタンクで、3重ジャケットになっており、内側に冷水が流れ、外側には断熱材が入っている。外気の影響をうけないもろみの温度は、すべてコンピュータで24時間集中管理している。
麹は普通酒にいたるまで手造りだ。広い麹室には切り返し機以外の機械はまったくない。今日は昨日朝8時に引き込んだ、山田錦70%の麹の切り返しである。
麹室のとなりが釜場になっていた。釜場には甑が2つ。普通酒は仕込みが大きいので2つ使う。この甑も特注品で、甑の下に蒸気だまりがある構造なのだとか。しかし、詳しいことは企業秘密らしい。
すでに吟醸の造りが終わっているので使っていないが、平成7年に建てた平成蔵も見せてもらった。7階建てで、釜場が最上階にある。6階の麹室は引き込みと盛りの部屋が2つずつ、計4部屋あった。すべて麹蓋で造るのだが、その麹蓋も特注品で、普通のものより軽くできているので扱いやすいという。
大手メーカーのような豪華な研究室も完備しており、マイナス85度で酵母を保存する冷凍庫は、車1台分もする高価なものだとか。酵母は70種ほど保存していて、そのうち5〜6種類を使う。すべて泡あり酵母だ。泡ありの方が、泡の状態で判断しやすいし、菊姫の酒に欠かせない酸も多く出すからである。
5階は仕込み室ともと場である。酒母は7割を山廃で造る。3〜4階は貯蔵庫だ。50本ほどタンクが並んでいて、平均2年、長くて5年は熟成させている。1階には吟醸用のフネが4台並んでいた。贅沢なようだが、平成蔵と明治蔵の分をすべてここで搾るので、4台ないと、一番良い状態のもろみを搾ることはできない。
設備は見る限り完璧。造りの中枢は社員の酒マイスターたちが担う。さらに、蔵元の息子さんである柳荘司さんが、大手メーカーでの修行を終え、昨年帰ってきた。今冬は酒造りの勉強中のため蔵人として働いているが、将来は父親の目指してきた「本物の日本酒」を、もっと広めたいと意気込んでいる。菊姫の酒造りは、盤石のように見受けられた。
業界の異端児と言われて
蔵元の柳達司さんは、業界の異端児と言われ、その歯に衣着せぬ物言いで恐れられている。10年前に、雑誌で日本酒の連載をしていた時に、一度お会いした。そのとき連載のタイトルが「気鋭の蔵元ここにあり!」だと説明したら、「気鋭の蔵元って、俺以外に誰がいるんだ?」と切り返されたことをよく覚えている。あのときの勢いは今も健在だ。
「とにかく日本酒業界はダメだ。安い米を使い、自分で精米しない。そしてアルコールを添加して薄めたがる。液化仕込みなんて、酒粕が出ないんだよ。三増酒のほうがまだマシだ。こういう状況をおかしいと感じない感性が、もはや狂っている」
柳社長によると、日本酒造りは合理化だ省力化だといって、毎年どんどん手抜きをしていった結果、10年経ったら大違いになっていたという。それは、酒に対する愛情がないから。いかに安く造るかに奔走した結果だ。「だいたい紙パックがいけない。ロマネコンティに紙パックがあるか?うちが紙パックを造らないのは当然のこと」と切って捨てた。
柳社長はまた、現在の吟醸酒をも憂えている。きちんとした麹造りをしなくても、カプロン酸エチルをたくさん出す酵母を使うことで、簡単に吟醸酒が造れるようになってしまった。しかしそれは、秋になったらダレる、量が飲めない酒だ。「昔のような麹の力で造る吟醸酒がなくなった。菊姫が目指すのは、飲んで旨い吟醸酒です」
話を聞いていると、本物を追究する柳社長こそ正常で、日本酒業界が異常なのだと思えてくる。「菊姫の酒は、基本的に肉体労働者の酒。エネルギー補給のために飲み、アテがいらない。でも、なにもかも合理化されて忙しい時代に、一合の酒をゆっくりと楽しむ人が少なくなったことは残念です」
そんな思いからか、3年前、都心にゆっくり飲める店を作ったという。後日、東京に戻った私はさっそく足を運んだ。店名は「酒亭菊姫」。新橋烏森神社の近くである。カウンターがあるので一人でも立ち寄りやすいし、2階には座敷もあるので、最大13名の宴会も可能だ。
日本酒は菊姫のみ、料理は目にも鮮やかな会席料理である。まず、「BY大吟醸」からいただこう。菊姫にしては、熟成があまりかかっていない酒で飲みやすい。次は「黒吟」。冷蔵庫で瓶貯蔵し、3年寝かせた吟醸酒だ。トロリとして旨みがあり、全然ヒネてない。旨い!
甘鯛の桜蒸しにホワイトソースがかかった一品が出てきたとき、女将さんが「ぜひこれで」と「山廃吟醸原酒」を持ってきた。お〜、これは旨い。しっかりとコクがあり、濃厚なホワイトソースに負けない酒だ。生牡蠣にはすかさず「山廃純米」のお燗をもってきた。お酒と牡蠣の旨みがさらに広がり絶妙だ。
柳社長が目指してきた本物の日本酒造りは、菊姫がある限り、続いていくだろう。いや、続いてもらわなければ困る。杯に注がれた、うっすらと黄色い酒を飲み干し、この一杯に凝縮された菊姫のこだわりに、思いをはせるのであった。
菊姫合資会社
創業安土桃山時代・天正年間(1570~1600)ごろ
年間製造量3000石
石川県白山市鶴来新町タ8番地
TEL 076-272-1234
http://www.kikuhime.co.jp
1鶴の家 石川県白山市鶴来古町ワ23 TEL076-272-0525
2ブリのたたき
3仕込み
4麹室
5蒸し取り
6柳荘司さん
7菊姫のお酒
8柳社長(中央)、山上さんとともに
9酒亭菊姫 東京都港区新橋2-15-17 TEL03-3597-1515
10甘鯛の桜蒸し